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前回、瞑想のゴールは
苦しみからの脱却と話しました
その1を読んでいない人はこちら↓
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では、苦しみとはなんでしょうか
それは、渇望と嫌悪だと言います
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瞑想を始めた頃は
嫌悪が苦しみの原因だと知って
すごく感動しました
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私は子供の頃から正義感が強い方で
いじめられている子を見ると
あと先考えずに庇ったりしていました
でも、その結果、自分が疎まれたりして
「私は何も悪いことをしていないのに
なぜこんな目に遭うのだろう」
と思うことがよくありました
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でも
「私の中に嫌悪という濁りが
あるから苦しいんだ
結局、自分を自分自身で
苦しめていたんだ」
とわかったら、人生が変わっていきました
生きるのがすごく楽になってきました
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一方、渇望に関しては
はじめの頃はなぜそれが苦しみなのか
よくわかりませんでした
苦しみかもしれないけれど
あった方がいいものだと
思っていた時期もありました
ところが、瞑想を続けるうちに
渇望は本当に大きな苦しみだと
いうことがわかってきました
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ちなみに、希望と渇望は違います
渇望は、欲しいものが手に入らなかった時に
がっかりするかどうか
執着があるかどうかで決まります
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特に愛に対しての渇望は
強いものです
好きな人へは強い執着をうみます
一日だって連絡がないと苦しくなります
その人のことばかり考えてしまいます
それなのに別れると
その人のことなど一切思い出さなくなります
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愛は消えません
本当の愛ならずっと続くはずです
なのに思い出さなくもなるということは
その人に対して単に
執着していただけかもしれません
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人間としての時間は大変貴重です
全ての人は何かしらの使命を持って
生まれてきたのだと思います
それなのに、渇望に溺れる時
その後には何も残らないのです
短絡的な快楽に溺れて
本来の使命を忘れいくのです
恐ろしいことです
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「人間の証明」という本の中で
囚人たちに女性をあてがう
という場面があります
短絡的な快楽に溺れさせて
本来戦うべき相手を
忘れさせようとしているのです
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今の私たちも同じだと思います
一生懸命働いても生活が良くならない
病気の人は増えるばかり
「その原因はどこにあるのか?」
それを考えることはとても大切なのに
世の中には
簡単に気持ち良くなれる
快楽に溢れているから
そちらに流されてしまいます
苦しみは存在するのに
その本質をみようとはしないのです
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短絡的な快楽にばかり溺れるのは
動物の生き方です
でも、快楽というのは
本当に争うのが難しいものです
だからこそ渇望を滅する訓練をすることは
とても大切なことなのです
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政治に興味を持つようになって
渇望がいかに恐ろしいものなのか
実感としてわかるようになりました
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では、それらを滅するためには
どうすればいいのでしょうか
続きは次回
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