インドでヴィパッサナー瞑想30日コースをしてきました
それを一言で言うと「自然」でした
それは大したことのない経験と言う意味ではなく
私がここにいることを「知っていた」
私がこのコースを完了できることを「知っていた」
できることを「知っていた」
私がこの人に出会うことを「知っていた」
と言う感じ
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(センターの表玄関)
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海外へ行くと、大抵
緊張や居心地の悪さを感じるけど
「昔私ここに住んでいたのかな?」
と思うほどリラックスしていました
とても不思議でした
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ちなみに、私は30日間「乞食」をしてきたんです
人の善意だけに頼って
食事をし、宿を与えられ、生活をしてきたのです
この瞑想センターは寄付制ですが
私たちが寄付をするのは次に来る生徒さんのためにあって
自分たちは、昔寄付してくれた人の「施し」によって生きるのです
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施しをされたものについて文句を言うことはできません
施された側は自我を滅することを学び
施した側は自我を増長させないように
純粋な気持ちで与えることを学びます
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(私が行ったセンターの様子)
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このシステムは日本のセンターも同じですが
インドではそのありがたみをさらに強く感じました
正直「収容所 のようなところに収容されるのだろうな」と思っていました
ところが部屋は大理石の床、高い天井、
白亜の壁、1人1つずつのバストイレと
大変充実したもので
食事もカレー2種類、野菜3種類
ご飯、チャパティー、果物など
たくさんのメニューがありました
(そして大変おいしかったです)
庭には、たくさんの花が咲き乱れ
常に目を楽しませてくれます
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自分の持っているものを分け与える事は大変難しいことです
特に見ず知らずの方に分け与えるのは難しいことです
それなのにこれほどまでの施設を維持していけるのは
そういった方がたくさんいたからです
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センターはすべて独立採算制なので
借金があるセンターもありますし
潰れてしまうセンターなどもありました
でも、このセンターは理想だけで、
これほどまでに運営されていて
奇跡のように感じました
そして、「人間、まだ捨てたものじゃない」と
思えました
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私たちは資本主義の社会で
競争の中で暮らしてきたから
助け合うことの大切さや
人に与える喜びを
知らずに生きてきたような気がします
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資本主義が悪いわけではありませんが
それがすべてだと思ってしまうと
本当の生きる喜びを知らずに
人生を終えることになるかもしれません
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ちなみに、瞑想のゴールは苦悩からの脱却です。
そのために
シーラ(道徳律)
サマリー(集中)
パンニャ(知恵)
を学んできました
長くなるので、続きは次回
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一緒に行った仲間たち(コースが始まる前)